1:30 09 2012 


随分と、この場所から遠ざかっていた。
いろいろなことが、少しずつ疎かになっていく様は、、、やはり嫌だ。
人間誰しも、歳をとるにつれ徐々に色々な事が疎かになっていくはずで、多分それは避けようの無いことかも知れないが、物事を疎かにしている自分を自覚すると、漠然と哀しい気持ちになる。時間の無慈悲さと、残りの時間へも思いを馳せる。
成長し深みを増して行く度合いと、物事を疎かにしていく速度、人間はどの時点で疎かにしていくことが、深化を上回るのか。。
死ぬまで深化の速度が、物事を疎かにしていく速さを上回ることが出来たらとても幸せなことだと思う。

自分が走る理由はいくつかあって、その理由の優劣というか強弱は時々に応じて差がある。
単純に公園の広大な自然に自分の体を放り込みたい思いが強い場合もあれば、デトックスのようにすっきりしたい場合もある。
ただ、どんな走りにも共通していることは、目標やゴールがあるから、走りきれると言う点があり、最近は走りながらこのことを良く考える。
ゴールが無いままに走り続けるのはどんなに大変なことか、走り続けているとそれを身にしみて感じる。

人生や仕事は、時としてゴールが見えないまま走り続けているような感覚になる。
いつか必ず救われるときが来るはずだ、と言う希望のゴールは持ち続けなくては苦しみに絡めとられてしまいそうになる。
ゴールは日々の小さな目標に置き換えて行くことも出来るはずで、仕事の進度や、懸案の解決など、細かなゴールや目標の設定が日々を少しずつ明るくしてくれるような思いもある。
まだまだ、頑張らなくてはならない。




running monk

9/09 15.06 km / 1:23'00" / 5'31" min/km / 960kcal
9/15 15.02 km / 1:25'03" / 5'40" min/km / 956kcal
9/29 15.08 km / 1:25'02" / 5'38" min/km / 961kcal

1:07 09 2012 

知人の音楽家、もしくはjazzmanと呼んだほうが相応しい人間から、文章をたのまれていて、今日渡すことができた。
仕事の合間合間で書いていたため、数日を要し、そんなに簡単な作業ではなかったけれど、とても喜んでもらい、ほっとしている。
書きたいことが胸にまとまってからは、一気に行ける。ただ、そこから先の細かな言葉の選び直しや、言葉を引いて行く作業に多くの時間を割いた。
大変ではあるのだけれど、何かを丁寧に仕上げて行く作業工程は好きなほうなのかもしれない。仕事も同じだが、逃げずにこだわり続けると、いい結果が得られる。
部下に対し、仕事はめげずにこだわり続け修正・改善を続けると必ず結果が着いてくる、と度々言い聞かせるが、たいていの場合、みな、きょとんとしている。
若いころは、文章を書く際はいろいろと気をめぐらせすぎて、言葉数の多い、説明的文章になりすぎるきらいがあった。しかし歳を経るにつれ、言葉を引いて行く事に若かりし頃に抱えていたような苦悩みたいなものが薄れてきたように思う。切るものはバサリと切れる自分がいる。これは、歳を経たことによる自分という器の熟度から来ているものなのか、それとも、単純な感覚の鈍化から来ているのか、、気になる点ではある。

ふと考えると、文章を書くことは嫌いではない。父親の影響かも知れず、自分の父親は、絵も描くが、文章も書いていた。その昔、自分が小学校へ上がる前であるが、ヨットの雑誌に寄稿し、それが何度か採用され実際の誌面になっていたことをふと思い出す。確か、国際児童年という世界中の貧しい子供を救うためのチャリティーが盛んになった年代があったが、恐らく70年代の後半であったかと思う、父親はチャリティーに寄付するためのt-shirtsも作っていた覚えがある。両袖の長さが微妙に違うt-shirtsで、片方の袖が若干短くなって、袖が短くなりコストが減った分をチャリティーに回すというコンセプトだった。そのコンセプトの説明が英文で前面に書いてあるおしゃれなt-shirtsだった。
ただ、斬新過ぎたのか、あまり買ってもらえずに、家に沢山あまっていて、暫くは家族の寝巻き代わりになっていた記憶もある。5歳ぐらいの自分も、ほとんどワンピース状態でそのt-shirtsを着て寝た記憶もおぼろげながらある。

1:06 09 2012 

あの時感じていた、あの感覚や直感、それを今、記録として書こうとしても、やはり難しい。
あの瞬間は確かに特別だったけど、今それを言葉に置き換えようとすると全くイメージが違う。
ただ、あの瞬間、もしくはその瞬間ではなくとも同じ夜に文章にしたら、注入できた自分のイメージや思想はもっともっと違っていた。

自分は常に、自分が何者で、何を考え、何と主張し、何を主義とするのか、それを淀みなく答えられる自分でいられると良いなと思う。
今は、残念ながら、まだまだ刺激と反射の世界の囚われの住民で、思考がまだまだ浅い。

だれにも影響されず、だれにも振り回されず、自分だけ、と言うのも悪いものではないのかと最近思い始めている。
好きなだけ、こんな文章を書いたり、写真も取れる。

8/26 running
15.08km 1:25'16" 5'39" min/km 960 kcal

9/01 running
15.05km 1:22'33" 5'29" min/km 958 kcal

1:24 08 2012

『間接照明』

間接照明は小さなときから好きだった。
遠い記憶をたどれば、多分、まだ幼稚園のころ、間接照明が好きで、家中の電気を消して歩き、スポットライトを壁に当てて自分なりのお気に入りの雰囲気を作っていた。
多分、秋口で、まだ夏の名残はあり、窓を開け放ちながら、虫の音が聞こえてくるような時。自分は恐らくまだ幼稚園に通っているような幼少期で、、そんなある日、大好きな梨と巨峰が夜ご飯の後のデザートに出た。自分は案の定、自分の好きな雰囲気を演出しながら大好きな梨と巨峰を食べたいと思い立ち、部屋の電気を消して歩き、間接照明をセッティングし始めた、そして、、、
その当時、まだレコードの再生方法も分からないながらも、唯一スイッチの入れ方が分かる、そして、いつも自分の好きな音楽で「雰囲気造り」を助けてくれるFMラジオをステレオでつけた思いがある。不思議なもので、高価なステレオを、自分は自由に触れさせてもらえていた、レコードすらも。。

『月』は自分にとっては最大、かつ地球規模、宇宙規模の、間接照明であって、恐らく、その点が一番自分を月に惹きつけているのかもしれないと最近思い立った。
自分がかくも『月明かり』に惹かれる理由は、無類の間接照明好きにあったのかもしれない、、、そんなことを思った。

1:22 08 2012

刺激と反射。
忙しく、やらなければならないこと、突発的に発生する事象(刺激)、に対して、ただただそれに対応して行く(反射)。自分の一日はほぼ、この「刺激と反射」に支配されている。この「刺激と反射」は、ある意味「法則」に近く、そこにあまり人間性の介在する余地は無い。忙しさは年々増し、このいわゆる「刺激」は増え続け、それを反射的にこなして行く状況は、否応無く自分自身の職人的・技巧的に物事をこなして行く技術ばかりを磨いて、結果として技術だけで外科手術をこなす無機的・機械的な医者のような自分を生み出してしまった。
こんな状況を十年以上続ければ、仕方ないともいえるが、こんな無慈悲無機的に進む時計仕掛けの毎日を少しでも変えていければ良いなと思う。自分の考えや、印象をもう少し際立たせる日々。そんな日を少しずつ増やしたい。

1:05 08 2012





8月に入ってからのランニング15km はやはり相当キツイ。
ランニング後の水分補給をしっかりしないと、後から恐ろしい頭痛がやってくる。
消耗も深く、ランニング後の夜などは、お酒などはとてもではないが摂取する気にはなれない。。。


running monk
今週
15.00 km 5'34" min/km 1:23'27" 955 kcal

先週
15.03 km 5'36" min/km 1:24'16" 957 kcal